秘密
秘密は、知らないためにあるんだな、きっと
とある謎をこの間ひょんなことから解いてしまった
ずっと知りたかったのに、知ったとたんに牙を剥かれたんだ
大人になるってこういうこと?
横断歩道ゲーム、ルールは簡単
青信号、一番最初に横断歩道を渡り始めた人が1ポイント、ただしフライングはマイナス3ポイント
全ての人間の頭の上にポイントが表示されるようになっている、世界はそれを中心にして回っている
やさしい君には、世界の秘密を教えてあげる
だからこっちきて、耳貸して
H氏、ミュシャ展を訪れる。2
随分と時間が経ってしまった。
ちなみに、H氏ははミュシャ展を2回訪れたのであるが、それは会期最後の土曜日と、最終月曜日であった。今回記録しているのは、土曜日のことである。
いよいよ切符を切られて、H氏はミュシャ展展示室へと足を踏み入れた。音声ガイドが売り切れていると言う声が聞かれたが、H氏は音声ガイドを借りるつもりはなかったので、特に気にはしなかった。
入るとすぐに、ほんの数秒の映像があった。おじいさんがこちらへ笑いかける映像だ。H氏は何度かその映像を見、なんとなくミュシャ本人なのではないか、と思いながら確かめようと足を止めることはなく、映像に背を向けた。
あれはなんだ。
さて、見えたのはスラヴ叙事詩の第1作目、『原故郷のスラヴ民族』の部分であったのだが、H氏がそれを理解するには少し時間がかかった。その絵は、今までに見たどの絵画よりも、と比べるのも憚られるほどの衝撃をH氏にもたらしていた。
早く絵をみたい。否、すぐにはみたくない。
まだ部分しか見えていなかったのに、H氏は恐ろしささえ感じていた。この絵をみてしまったら、今までとは全く異なる自分にならなければいけない、ならざるを得ないことを、H氏は予感していた。
えいや、と心を決めて、H氏はその絵の前へと進むことにした。その大きさはもちろんのこと、どこまでも広がって行く夜空と満天の星々、十字を体現して見守り祈る神と使者*1、夜を赤く照らす戦火、迫り来る黒い異民族の影に、深い草むらの中で怯えまっすぐにこちらを見つめるスラヴ民族のふたり。鈍く光る手元の鎌。光の支配。すべてがH氏を掴み、世界の中へと導いていくのであった。
(とても印象的だった光について、ミュシャの絵は全体のときもあるし部分のときもあるのだが、本当にそれ自体が発光しているのではないかと思える。)
展示室は人で溢れており、みな上を見上げていたのをH氏は印象深く覚えている。皆が仰ぎみているなんて、不思議な光景である。これが『スラヴ叙事詩』なのか、というありきたりな言葉と、重心が浮いてくるような体の中心から震える感覚にH氏は包まれていた。こういうときは体の反応のほうが素直で、頭は中心の部分以外は冷静に働く。油絵なのに薄いなとか、上下にある黒い帯状のスペースはなんだろうとか、ちょっととびだしてるなとか、雑多な言葉を思っていた。
改めて絵を見ようとするが、あまりに大きい絵なので、遠くへ行かないと一度に絵の中のすべての要素を見ることはできない。人の視野は広いが、ピントをあわせることのできる範囲は狭いのだ、などとH氏は思っていた。
『原故郷のスラヴ民族』の中のスラヴ民族の女性とH氏は非常に長い間対峙した。その女性は、ひどく怯えた眼で、光のない瞳で、しかし大きく見開かれた目でこちらを見つめている。H氏には、その女性がただ前の方向を見ているのではなく、現在この絵の前にいる人間を見つめ、さらにはその中身を見つめているように思えた。
ムハは、いかなる国の未来も、その国が歩んできた過去や歴史を知ることにかかっていることを確信していた。
ミュシャはMuchaのフランス語読みであり、チェコ語読みではムハという。
この女性は、今私を間違いなく見つめているのだ。そして、問いかけている。「あなたは、歴史の上に生きている自覚があるか。歴史を受け継いで生きていく覚悟があるか」
H氏は次々流れていく人の中で、いつまでもその絵を前にして立ち尽くしていたのであった。
神様
音楽には信仰というのがひとつ要素としてあるとは思うが(これは冷静だから考えられることだと思う)
最近結構神様(キリスト教)について考えている。
だれなのか、なぜわたしを愛してくださるのか、そのことを信じるとはどういうことなのか。聖書の言葉を反芻して少しずつ吸収していくが、今のところくすぶったままだ。
最近の自分は気持ちと言葉が気持ち悪いほど先行していて、突如として頭がうわああああとなることがある。
自分のうちに不変があるのはとても大きなことであると思う。
(全くもって何を言いたいのかわからん。)
今日お芝居を見に行きました。園の『ねむけ』です。なんとなく不条理かな、と思った。人格が分裂してて、また映像と音声と言語は少しずつ切り離されているような感があった。それらがどこまで絡み合ってるのかはわからない。結局のところ何も解決していないしあの子は死んで、自分は生き残って、自分はあの子を殺した。
舞台の上で起こっていることはすべて現象であって、つまりはひもの震えのパターンの集合体にすぎない。故になにもそこに意味なんてないと思いたいのだが、演劇には言葉があって、目の前では動いている人間がいるし耳オールウェイズ開放状態だから意味の取れる言語を私の脳は理解してしまい、なにかしらを受け取ろうとしていた。
演劇について、それ自体としてストーリーが劇的であって楽しめるものは、一ジャンルでしかなく、そして今回のは多分そういうのではなく一貫した世界観の中ですべてが完結している感がしていた。自分の中になにかしらの位置づけをしていくが、どうにかしてむこうがわの人が考えている真髄(みたいなもの)にたどり着きたい欲がある。
(どうもわたしはまだ「個人の解釈に委ねる部分もある」とか「観客の想像力」とか「十人十色の見方」とかに順応していないようだ。)
全体の演出とか科白と役者の行動の関係性とかから最適解を導き出すことはできるけど、わたしはどちらかといえば、その証明過程を知りたい
(知りたい知りたいと今は思うけれど、実際場所にいるときは、浴びてのまれてとにかく感覚という感覚をすべてひきつけられていた。おもしろかったな。おわりです)