ワンダー

今日、2日間のお芝居の本番が終わった。自分は演助と演奏だったわけだけど、でもその1時間弱に費やした時間は、考えた時間は本当に大事で、泣きたいくらい大切で、ああ、もう同じ時間を繰り返すことはないんだなって電車の中で思っています。終わった瞬間わたしは孤独だ。演出の人が大好きで、俳優が大好きで、スタッフの人たちが本当に大好きだった。


お芝居の時間は本当に輝いていて、一生この時間が続けばいいのにな、自分の人生がずっとこれだけのためにあればいいなって思うよ。

でも、この終わった後の孤独を、どうやりきればいいんだろうとも同時に思う。飲んでひとまず涙目になりながらこの時間をやりきって、そのあと。無理矢理にでも前に進めって言ってくれるのは誰だ。助けられなくても次に進みたい。

自分で、前に進みたいと思うよ。

自分で前に進むために、あなたにそこにいてほしい。


わたしはまだ、迷っているのかもしれない。

自分の孤独の、泣きたいこの気持ちの、ただそれだけのために。


二足のわらじ

今日は雨だったから、お墓に行って将軍様にお参りしたよ。

 

本当に二足のわらじを履きに行くつもりで、ひとに宣言しまくっている。なぜ理想の環境に入れてもらってそれでもそんなことを考えているんだろうということをずっと引っかかっていて、これは逃げなのだろうかと思ったり、実際逃げのような気がして落ち込んだりした。まわりにいるきらきらした人たちを見て、ますます滅入った。

 

 この世にはわからないものが3つあると思う。人間、自然、芸術。

 

読んだ本に、こうあった。この世は今私たちの作ったものが多すぎて、わかることになれてしまっているせいで、わからないことに慣れていなくて混乱してしまう。そうだと思った。わからないからわかりたくて、でもわからないから混乱して、もがいて、しかし報われない世界だった。

でも、わかることもある。全てはわからないけど、わかることももちろんある。たくさん知りたい。たくさん見たい。そのあとわかりたいと思うもがき方はひととおりではない。世界は謎であふれている!

 

芸術を学んで、わからないのだが、わかりたいと思って動くことがどんなにおもしろいかと思った。そしてさらにそれを超えて、わかりたいとおもう気持ちを全く原動力にしなくても没頭できるおもしろさがあることを見つけた。

 

わたしはもっといろいろななぞなぞをまず見たいと思ったのだった。そしてときかけのなぞなぞをたくさんかかえて、ラスボスを探しに行きたいと思ったのだった
 

とにかくやってみることにする。

さよなら

久しぶりにコンサートに行ったら、全然聴けなくなっていた。驚いた。耳って開きっぱなしだけど、本当に、ききたいと思わないときこえないんだなとか思っていて、会場で座っているのが苦痛で仕方なくて、帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたいってすごかった。お客さんが最後アンコールをせがんで拍手し続けるのを、やめてやれよって思いながら見ていた。わたしもおかしいけど、やっぱりちょっと狂ってる、と思う。

あんなに好きなラヴェルだったのに、なんでだ。みんな何をきいてるんだろうってそればかり考えていた。もちろんいい曲だったし、好きな音の並びだったし、ふさわしい美しさの音だったと思うけど。


いろんな人とさよならしたいと無性に思っている。自分とも。自分とは別れられないなあ。バンプとかミスチルとかをききまくって、歌詞に無駄に共感したり、悪態ついたり、久しぶりに泣いたりした。


海に帰りたい


フェイズ

久しぶりになった。ここは、気がわけがわからなくなったときに来る場所でもあるから、きっとしばらく何も考えずただ脳天気にいたのか、それとも非常に色々なことに追い立てられていてそんな気にもならなかったのか、今となってはもうわからないのであるが。

 

浅野いにおの漫画をはじめて読んだことが、なんだか自分の中で例えば初めて親に嘘ついて遊びにいくときみたいな感覚だったこと。

高校生前にして饒舌に喋る自分が本当に今思うと気持ち悪いんだよな…この感覚なんとかならないかな。

自由でいることは、究極の孤独状態と表裏一体だと確か江國香織の文章の中でそんな感じのことがあって、一人でいるときの楽なかんじとか、自分の中に普段の世界の自分というキャラを持て余している感が拭える感じとか、すごく好きなのに、そんなことを言わないで、まだ夢を見させてほしいと思うということ。

日常をきりとっただけのものなのに、とてつもなく心惹かれること。(イデアに到達できていない証拠みたいな発言)

二足のわらじをどうしてもはきたくて、近い将来必ずそうしたい。どんな形があるんだろう。

優しくされるとみんな大好きになってしまうから、馬鹿だから、本当にほうっておいてほしい。無条件に人にあたえるのはやめてほしい。やめてほしいと言っていながら求めている自分がいやだ。

 

どうしようもない。みんなみんな好きだよ。みんなわたしのものになってほしい、ないしは誰のものにもならないでほしい。

関係ないけどライヒのピアノ・フェイズは本当にいい。終わった。

鉛筆

自分が嫌いというわけではなかったけどもいつでも自分ではない人間になりたくて、人の真似してみたり、人のしないことをしてみることを好んでいた。

 

大人になるとだいたい鉛筆を使わなくなるけれど、そういう理由もあってわたしは鉛筆を使い続け、今も鉛筆が好きだ。

シャープペンやボールペンと異なるところとしては、紙との関係性が一つ挙げられよう。鉛筆は紙の繊維の間に粒子が入り込む、対してボールペンやシャープペンは紙をちょっと掘ってしまう。書き味の違いの一つはそこにあり、わたしが鉛筆を好きな理由も一つはそこにある。

 

昨日、新たな鉛筆の使い手に出会った。(鉛筆を使っていることを初めて知った。)その人の鉛筆はとてもよかった。手削りで、削り口が鈍角になっていた。短い鉛筆を補助軸に挿していた。芯はやわらかめ。多分そんなに高くない鉛筆だった。ひたすらにいいと思ってその旨を伝えたところ、ちびた鉛筆をずらっと並べた写真を見せてくれた。一円玉の半分以下の長さになった鉛筆がパノラマ撮影されていた。こだわりあるんすよね、と内側のエネルギーを見せてくるものだから、こっちまでわくわくさせられてしまってたまらない。(ちょっと子供みたいだった)

 

個性という言葉でひとくくりにするのはもったいないくらいによかった。

ちょっと結論が飛躍するけれど、人間はおもしろいね。

 

その人が鉛筆削るところをみたい。短い鉛筆の削り方をおしえてもらいたい。