眠れないので書いているのさ

とにかく文章にしてみることだよ、というのを聞いた。わたしは長い文章が苦手だ。しかし今回は、長くなるだろうと思う。

 

わたしが悲しくないのはあなたが遠いから という演劇をみた。そのせいでわたしは眠れなくなっている。まったくタイトルのとおりである。

家に帰って断片的に感想をまとめてみたところ、あんまりにも普通じゃないかって思いかけて驚いた。そうだ、普通だよ、だってわたしはいつだって悲劇の外側にいた。いつも犠牲者は隣の誰かだった。

 

幸福なことに、こうしてパソコンと向き合いちまちまちまちま文字を打っては消し打っては消ししている間も、世界のどこかでは兵隊が銃を撃っては装填し撃っては装填ししているのだろうし、そのたまはどこかでかならず、不幸なことに、人にあたってその人は多分死ぬだろう、その家族はきっと泣いているのだろうし、または泣いているではすまないような現実を目の当たりにしているのだろうし、一方では撃っている方の心がどんどん返り血に汚れていくのを、本人は、その家族は、友人は、どんなふうにみているのだろうなどと考えると、自分のなんと小さなことかと思わずにはいられない。しかしなんということか、私にできるのはそこまでである。平和だ。幸せなことに、不幸せなことにこの部屋は、実に平和だ。たまにこういう感傷的になっている夜に、勝手にそういうことを思い出すだけだ。

無力だ。しかし無力さに襲われている、このこと自体がナンセンスなのではないか?と思う。自己満足のかたまりではないのか。でもなにすればいい?

どんどん離れていってしまう。わたしとあなたの間には、距離がある。私と世界の間には、距離がある。悲劇はいつも突然だ。それがわたしでなくて、あなたのところにきて、わたしは関係ないところでふわふわするだろう。ふわふわふわふわ。今までの人生それの積み重ねだ。ふわふわの積み重ね。本当に幸福だったね。

なにもできない、なにもしない。悲劇をみないことにする。みないことにできる。むかつくなあ。なにやってんだよ。しかし、こういうことも、こういう夜にしか思い浮かばなくて、きっとそのうち忘れるんだよな。だって離れてるからね。ああむかつくな。

 

でもね、だからといって、あなたと近づくことを諦めるんですか?ということなんだよ。諦めるというと違うな、やめる、放棄するといってもいいかもしれない。手をのばすのをやめる?距離を超えることを?時間を超えることを?試みすらしないのか、ということなんだ。きっとやめたとき、悲劇というのは本当に起こる/なくなるんだろうな。(だって少なくともつながりかけていないと)

 

今日隣で見ていた人は、何を考えていたんだろう、昔の友達のことを考えていたのかもしれないし、過去にテレビ越しに、文字越しにながめた悲劇を思い出していたのかもしれないし、となりの劇場のことを考えていたのかもしれないし、何も考えていない、そういうことがあったかもしれない。その隣の人が、隣の人の、その距離と時間と、その間で手を伸ばしたら?伸ばすかな?わからない。

 

タイムラインに出てくる文字をスクロールしていくだけで世界を自分の中に位置づけた気になってたんだいつのまにかわたしは。みんな遠いよ。ねえ服おそろいにしたくらいじゃ全然つながれないよ、わかる?くっついてるときほどさみしいっていうの、わかる?小さいことから世界全部を飲み込んでしまうような悲劇まで、ほんとうに隔たれてるから救われてるばっかりだったね。

問、自分はどうやって存在するのか?答えは簡単だ、まわりのものと別れる、隔たれることによってだ。

 

いつでもその隔たりの中で混乱しながら生きているのだとすれば、その距離のはかりかたと、とどまりかたをちょっと教えてくれた。「ここじゃないだろ」っていうポイントで何回か泣いた。痛いくらいに平和だった。演劇はつよい。そこにある世界は、リアルでもあり、でももちろん演劇だから消えていってしまう嘘ではあるんだけど、それはいつもはみえないことにしている(悲劇)わたしたちの世界の確実な一部分だった。世界が立ち上がっている。観客も、ある意味では役者。みんな生まれた瞬間から距離によって隔たれていて、それぞれちょっと死んだような目をして隣をみている。みていた。そして、同じ作品を見た。作品は、それぞれの心に、当然距離を持って、時間をかけて、しかし確実に着陸するだろう。わたし(たち)は、75分前と同じ世界に生きているが、75分前の自分とは違う人になっていて、それゆえに75分前の世界とは別の世界になっている。お隣と距離があることだけが、変わらない世界。

(隣という感じの右半分は、憐れみの右側と同じで、鱗の右側と同じで、鱗に逆らうと逆鱗になるっていう台詞があった)

 

さあ、現実は続いていくぞ、悲劇は止まらない、悲劇は突然起こる。ないような顔をして、距離は横たわっている。

わたしはなにをする?あなたはなにをする?

 

そうだな、まずはあなたと踊りたいな。踊ろうよ。

 

迷子なう

 何人かにもうひとつ道をつくりたいというようなことを喋る。

あるひとりは、音楽がきらいになったの、といった。

 

音楽はきらいになってないけど、西洋音楽は前よりは好きじゃなくなったかもなぁ。

音楽も好きだけど、人が好きになっちゃったんだよなぁ。

あと、自分のほんとうの欲求みたいなものに気づいた感もある。大学受験前は、とにかく急いでいた。人と関わりながら生きていきたいし、たくさんの人に出会いたいし、出会ったみんなにハグしてまわりたい。

人から必要とされる人間、みんなにじゃなくていい、ああ、今日いないなあの人、って思ってもらいたいって思う。いやつらい。いまの自分とのギャップに苦しむし、いつまでもふらふらしている自分が苦しい。

限られた時間をどうしようという気持ちがある。

前ことばのことで先輩が言っていたのの応用で、時間を区切っていくのではなくて、自分の行動によって、自分の時間を拡張させられるようになりたいなと思っている。

 

苦しいのは夜だけで、基本的にはほわんほわんしているんだけどさ!

 

 

文房具は記憶のかけら

わたしは大の文房具好きで、それがなぜかなあと考えたときに思い立った一つの結論が、文房具は思い出すための道具っていうのがある。

 

どういうことかというと、それぞれの文房具のむこう側には人がいるっていうやつだ。思い出のマーニーで使われていた鉛筆、サマーウォーズで使われていたボールペン、好きだった先生が使っていた万年筆、尊敬する人が使っていたシャーペン、友達が使ってたペンや、本でおすすめされていたノートなど。

(羅列してみると案外気持ち悪くてショックである。)

 

いろいろなデザインの文房具がある。デザインは、使いやすくするための工夫でもあり、アイデンティティのあらわれでもあり、わたしはそれらをながめて、一緒にいた人のことを思い出している。

 

 

余談だがゼブラのタプリクリップというシャーペンがあって、今シャーペンで一番使っているのがそれなのだが、これは本当に強い。東大、京大、東工大、いろいろな大学のプロモーションに使われている。コンビニでよく売っている。100円、安い。部屋をあさっていたら、全色見つかった。さすがに笑った。お店やさんでもしようかなあ。

それでも奥底にあるもの


酔った頭で考えたことだけど


結局わたしは、この自分で1人でいる時間というのに、生涯耐えられないんだと思う。

ひとりでいたがるくせに、人といる時間の対価としてのひとりでいる時間だけが好きで、きっとそうなんだと思い、ひとりでいながら、早く誰か、とも思っている。人に、わたしは生かされている。


臆病者だ、わたしは。


絶対に、いつも必要とされる人でありたいというのが、わたしの切実な願いなのかもしれない。

そのためなら、多分何だって投げ捨てられる。


わたしは、必要を掴みに行くのだ。

愛を、正当な手段によって、また確実な保証として、勝ち取りに行くのだ。