漱石より

夏目漱石を読んだ。夢十夜である。

恥ずかしながら漱石は読破したことがない。坊っちゃん草枕、三四郎、名前だけはたくさん知っている。

 

第二夜、「凄いものが」という表現がある。そこへついたとき、今までになかった感覚(完全に体の反応として)がきた。

普段の私は簡単にすごいという。同じ言葉、同じ現象を指す。指すはずだ。しかし漱石のそれは違った。本当に「凄いもの」だった。言葉が意味を超えていく。世界をあらわすのが言葉だとしたら、そのとき言葉は確実に世界を広げる側にいた。言葉が、何かを支配していく、想像力で補われるような何かではない、必然的にある世界が、言葉を中心に立ち上がったのがはっきりとわかった。

 

それを先輩に話す。わたしはいつまでもそれを言葉に捉えることができない。先輩はちょっと考えて、5kgのお米を持ち上げるくらいの力量で、「言葉は普段はふわふわした世界を切り分けて認識するためのものでしょ、でもその言葉は逆にふわふわした部分にたどりついたというか、広がったんだよね」と言った。圧巻、感服、敗北宣言。自分の感覚じゃないのにね!感覚の共有かな。

 

とにかく漱石は今わたしのなかでは言葉の魔神で、最強の使い手である。わたしは新米使い手として、まだまだ悩んでいく所存であり、言葉と自分の間の何かを見出したいと強く強く願う。