ファン歴2ヶ月だが、ちょっと『かまいガチ』ドラマ回について話したい

 

 

久しぶりの投稿になってしまった。

 

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タイトルの通りである。

ファン歴2ヶ月だが、2021年2月8日の回(2月9日深夜)に放送された『かまいガチ』について話したい。

 

本題に入る前に自分の話を少し整理させていただく。

 

かまいたちを好きになったのは今年に入るか入らないかくらいで、きっかけは妹がみせてくれたYouTubeだったかと思う。

それまではネタ番組でなんどか見ている程度であったが、ネタだけでなくトークがおもしろく、また二人の掛け合いがみていて楽しく、いつのまにか彼らを応援するようになり彼らに囲まれて生活するようになった。

話は逸れるが、2020年末に嵐が活動を休止してしまった。嵐を好きだという気持ちの中にも、彼らがアーティストでありながらも一人の人としてメンバー同士話したり笑ったり、お互いを大事にする姿に惹かれたという側面があった。

 

自分がかまいたちに向けているのは上の場合と同じような気持ちで、ネタをやっている芸人としての姿だけでなく、そこから少し離れている(ようにみえる)姿や二人や周囲の人たちの関係性も含めたかまいたちをいいな、好きだなと思っている。*1

今はかまいたちのラジオ、テレビ番組、YouTube、雑誌書籍、SNSなどで日々拝見している状況だ。

 

 

そしてかまいガチである。

この日の内容は、かまいたちの二人がガチでドラマに挑戦するというもの。

そのストーリーは、

 

 

《!以下ネタバレが含まれます!》

今ならTVerで観れる↓

 

 

 

 活躍を続けるかまいたちの二人だったが、二人の間には次第に溝が生じていっていた。ある日のかまいガチ収録後もお互いへの不満を表にする二人。そしてとうとう山内が「解散させてください」と頭を下げる。山内は「おまえ(濱家)に飽きた」と濱家に告げ、濱家もそんな山内に反発し不満を募らせる。濱家の複雑な心情の背景には、山内の病気があった。濱家は彼の事情をマネージャー伝いに知っていたが、山内は濱家に打ち明けるそぶりを見せない。楽屋に残された「やらなきゃいけないことがみつかった」というメモ、山内の「ごめん」という言葉、そしてとうとう二人は解散することになる。あるかまいガチの収録で、山内は濱家ひとりをカメラの前に立たせる。濱家の様子をみた山内は、「ひとりでもやれるやん」と声をかけ、「自分はピン芸人になる」「もっと広い世界に行くんや」と濱家に伝える。その姿から濱家は山内の心を感じ取ったか。——2年後、濱家は賞レースの舞台へ立つ。ピン芸人として、しかし横に相方の存在を感じながら……

というもの(まとめクソ下手)。

 

 

見終わってまず、複雑な気持ちだった(心の山内がしぶい顔で「どういう意味?」と言っていた*2)。

 

普段芸人である彼らが真剣に演技していること。「練習がめんどいから絶対に役者はやりたくない」と力説していた山内さんと「ゲラ家」こと濱家さんがシリアスなシーンに挑む。その状況は確実におもしろいし、時折「わーここ苦労したんだろうな」というシーンがありそれを想像するのもまたおもしろいのだが、ストーリーが以上の通り全然笑えないのである。

笑ったらいいのか泣いたらいいのかわからず、ヘラヘラしていた。

そして残ったのは喪失感だった。

「もう彼らはいないのではないか」という感情がずっしりと体の真ん中に居座っていた。

 

彼らの演技がうまかったのかはわからないし、どのくらいドラマとして完成度が高かったのかもわからないが*3、ちょっと一口では飲み込めない気持ちの変化があったことは事実だ。

この感情はなんだったんだろうか。

 

 

自分はまず、この番組を「彼らが演技しているのを楽しむ」というつもりで観ていた。どんなふうにお芝居に取り組むんだろう。ちょっとメタ的な楽しみである。

だからどこかでは「うぉ、このカット『ドラマ』って感じだなあ」だったり「あ!がんばってる!がんばってる!」「今の顔いいなあ」というテンションでみていたのだ。

そして最後までこの視点は保持されていた。最後のシーンが完全に2019年のM-1を踏襲していることも冷静に把握できた(「4440」だな、あの後ろ姿だな、うわ〜泣かせにきてるわあ)し、「アナウンサーが舞台の方まできてくれるのか〜」とか思っていた。

この点をみると、普段ネタをみるときの視点がそのまま運用されていると言ってもいいだろう。ネタをみるときには、現にネタそのものをみているだけでなく同時に二人の仕草をみているのであり、あるいは同じネタの別のバージョン(過去の時間軸)と照らし合わせながらみていることもある。さらにそのネタがコントであった場合には、「署長と警察官」とか「学生」の二人をみつつも「かまいたち濱家と山内」を同時に意識しながら見ている。

つまりいくつかのレイヤーを与えながら二人の姿をみることは、ある意味では普通のことであり、それは今回のドラマであっても同じだった。

 

一方でこれが「お芝居である」ことを忘れるような気持ちでも観ていた。その要因には、この作品(いまさらだが作品と呼ぶことにしよう)の舞台が、普段見ることができず知ることもできない芸能界の、そして彼らの「本当の」姿を舞台にした物語であり、かまいたちの二人が本人を演じていたことが考えられる。もし彼らにこの作品で描かれたような出来事があったとしても、一ファンであるところの自分には知る由もない。加えて、コンテンツではないかまいたちをみることは普段不可能だが、見慣れた彼らの姿やふるまい、他者との関係をみせられることによって、現実と作品を混ぜ合わせてしまうような想像力が働かざるを得ない。

つまり、この作品の中で描かれていた二人の姿は、「初めて観る二人の日常」だった。この作品はそういう意味で、意図とは無関係に自分の中にあるかまいたち像をうまく補完する役割を担ってしまったのである。

 

これらの点においてこの作品は「フィクション」でありながら「実際にあってもおかしくない話」つまりファンにとってはリアリティのある物語として成立していたとみえる。

 見終わった後のあの複雑な気持ちは、普段のネタと同じ構造で彼らを見ることができていながらも、その内容ではコンテンツ化されていない「彼ら自身」を見てしまっているのかもしれないというずれ、そしてその中で考えもしなかったような喪失の可能性をつきつけられた衝撃によって引き起こされていたのではないかと、冷静になった今では考えられる。

 

 

ところで新海誠監督は『君の名は。』(2016)公開時のインタビューにおいて以下のように述べている。

君の名は。』は、男女の入れ替わりで始まります。ヒロインの宮水三葉(みやみず・みつは)が、東京の男の子になるコミカルな話ですが、最終的には東京の立花瀧(たちばな・たき)が「もしも自分が、消えてしまったあの町に住んでいたら…」と考える物語に変わります。僕たちが2011年以降にずっと想像していた「もしも私があなただったら…」という想像力が、そのまま映画の中にあります。それが無意識のうちに、たくさんの日本人の観客にリンクしたのかもしれない、と思っています。*4 

 

 

 「もし……だったら」という想像は無意味な戯れにすぎないかもしれないが*5、それを考えずに生きていくことは現代において不可能と言ってもいい。わたしたちは気づかないうちに「もし」をくぐり抜け、いくつも存在していた可能性のなかから偶然にそのうちの一つを選んで(選ばされて)ここまで来た。立ち止まることによってしか見ることのできない「もし」。

ただ、これが現前することによって逆説的に「いま」に光があたることになる。もし、が本当になるために、あるいはもし、を避けるために、(『君の名は。』の瀧くんのように)わたしたちは想像力を駆使して、いまを戦うのである。

 

かまいたちの二人やかまいガチのスタッフの皆様がこのドラマ企画を通じてファンに見せようとしてくれたのは、端的に「かまいたちの新しい可能性」だったのかもしれない*6。だがそれだけでなく、この作品は図らずも番組の枠を超えて、かまいたちというコンビ、その現在に光を当てることになったと思う。

この作品はドラマの方法とお笑いの鑑賞の構造を併せ持ったゆえに、今自分の前に(画面の向こうであっても)かまいたちがいて、二人で元気な姿を見せてくれることの尊さ・儚さをあらためて観客たちに実感させることになったのではないか。

 

「推しは推せるうちに推せ」

「素直、謙虚、感謝」の次に、自分の胸に強く刻む言葉になった。

 

これからも二人の活躍、そしてなにより健康を祈って、応援し続けたい。

 

(ちがう)

 

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まだビビっているので1回しか観れていません。

また観て、何かあったら逐一直したり追記したりしようかなと思います。

 

 

ちなみに謎の喪失感に襲われてアワアワしたのち、なぜだかコンビニにダッシュして森見登美彦氏の『熱帯』のだるまを作った。

かわいいねえ。そして推しの喪失から救ってくれるのはやはり推し……

 

 

おしまい

 

 追記①(2021/2/9)

2回目を観た。回想シーン(これは実際にあったもの)を使用しているが、ぜんぜん上の文章では触れていなかった。あまり印象に残っていなかったのかもしれない。

上で述べたような伝達の構造としては変わらないと考えるが、これらを挿入していることでよりリアルな描写になることは間違いないと思う。演技というか画面全体の助けにもなってると思う。また濱家の賞レースシーンで将来のことを話す二人を挿入することで不在を強調させてるな〜と思った。

あとカメラの難しさを感じた(ピント、カット、カメラ位置など。何を偉そうに……)。

最後の「めちゃめちゃおもろかった」を力強く言う濱家氏がとてもいい。解釈されるものとしてはとてもいいかたちになっているんじゃないかという気持ちになる。普段バラエティをやっている枠を使って作ったドラマだからなのか。ドラマを通していいたいことがちゃんと伝わるようになっているというか(何を偉そうに2)。


(通勤通学でみたら泣いちゃう気がするぞ!!)

 

*1:以前ジャニオタがかまいたちにハマったら、みたいなnoteを読んだ気がする。ジャニオタを経験している人であれば、お笑い芸人を推すことは至福に近いものがあろう。なんせ供給が多い。本当に多いのである。

*2:https://youtu.be/Z2Psg2JZbKEこの動画の「もし仮に俺が謝ってこられてきてたとしたら〜」のあとの山内の顔を参照

*3:さすがに樺澤マネージャーの役で黒木華さんがでてきたときにはびっくりした。すごいなあ。

*4:HUFFPOST(安藤健二【3.11】『君の名は。』新海誠監督が語る 「2011年以前とは、みんなが求めるものが変わってきた」 | ハフポスト

*5:「もしもしもしもしってお客さんの前でもしの話すんなや」っていうの、あったなあ。

*6:というかそうだったと思う。もしかすると本当にお仕事が来るんじゃないか。