漱石より
恥ずかしながら漱石は読破したことがない。坊っちゃん、草枕、三四郎、名前だけはたくさん知っている。
第二夜、「凄いものが」という表現がある。そこへついたとき、今までになかった感覚(完全に体の反応として)がきた。
普段の私は簡単にすごいという。同じ言葉、同じ現象を指す。指すはずだ。しかし漱石のそれは違った。本当に「凄いもの」だった。言葉が意味を超えていく。世界をあらわすのが言葉だとしたら、そのとき言葉は確実に世界を広げる側にいた。言葉が、何かを支配していく、想像力で補われるような何かではない、必然的にある世界が、言葉を中心に立ち上がったのがはっきりとわかった。
それを先輩に話す。わたしはいつまでもそれを言葉に捉えることができない。先輩はちょっと考えて、5kgのお米を持ち上げるくらいの力量で、「言葉は普段はふわふわした世界を切り分けて認識するためのものでしょ、でもその言葉は逆にふわふわした部分にたどりついたというか、広がったんだよね」と言った。圧巻、感服、敗北宣言。自分の感覚じゃないのにね!感覚の共有かな。
とにかく漱石は今わたしのなかでは言葉の魔神で、最強の使い手である。わたしは新米使い手として、まだまだ悩んでいく所存であり、言葉と自分の間の何かを見出したいと強く強く願う。
語録
美術の友人と
おもむろに話が始まる、夜の公園
自分が何とか生きる価値を見出す、作り出すように作品を作る
こんな自分生きてたってしょうがないから、と思ってしまうらしい
でも死ぬときは死んだってわからないうちに多分死んで、生きてたのぜんぶ簡単になくなってしまう
だから死んだっていいよなあって思う
でも、死ぬなって先人たちの教えがあるから死なない
死ぬなよって言われたことある、死にそうだったらしい
軽やかに自由にって言われた、わたしの生活じゃん
死にそうになりながら生き生きしたもの作らなきゃいけない
クソ難しい!!!
いつも考えてしまう
鋭利な
最近徐々に眠らなくなってきている。早朝のバイトに行くときも2時くらいまでは起きている。寝て朝になってまた何にも考えていないようになってしまう自分に嫌悪感を覚える。
窓から見た風景が透き通るような青で、それだけで満たされているような気がしながら、実はすり減っていることに、人と相対することで初めて気がつく。
自分の吐いた言葉で人が傷つくのを見て、自分が生きていることに気がつく。
理不尽だ、何もかも。
昼間のわたしは反射的にかわいいかわいいといい、おいしいものを食べてにこにこしている。
昼の自分も夜の自分も、全部、嘘みたいだ。
白と黒で
おもむろに魔女は私の首根っこをつまむと、窓の外、真っ白な大地に放り投げて、「さあ、ここはあなたのものだから、自由に、何をしたっていい」と微笑んだ。
思えばあの笑顔は、ただその白に怯えて立ちすくむことしかできないわたしを、予感していたものにちがいない。
雪の女王のごとく大地から城をひっぱりだせるひとはほんの一握りのものであって、自分はそれをできる人間ではないと気がつくのに遅れれば遅れるほど、そうではないとすべてを振り払って叫びたい気持ちになる。
何かを生み出すことは自分の身を削ることであって、自分がどこまでもかわいい私は平和に五体満足で歩いてきてしまいました。誰かに「許すよ」といってもらいたい。嘘、言ってほしくない。
見上げるといつの間にか夜だった。夜はわたしが存在することを否定も肯定もせず、ただひたすらにそこにある。ゆっくりと息を吸う。気管の壁を空気が擦っていく感触がまだ存在していて、わたしは初めて安心する。
眠りはすぐにやってきた。しばらくは目を閉じても意識がある。絵を見てから出発しようと思っている。音楽を聴いてから出発しようと思っている。
ネガティブ生産マシーンと化す
誰とご飯を食べるかということで可視化される人間関係なんて崩れ去ってしまえ。
1人で映画に行くなんて考えられない、と言うヒールと短いスカートのあなた、ライオンに生まれなくてよかったね。人間で、よかったね。
こうして架空の世界に向かって暴言を吐きまくる自分と、他人の噂話でご飯を食べられる人と、どっちが罪深いんだろう。
人間はみんな役者だって誰かが言っていた。外に出れば嘘、嘘、嘘にあふれていて、仮面をかぶった自分で踊り狂って、傷つけあって舐めあって、そうやって生きていくものだとしたら本当にわたしは貝にでもなってしまいたい。
ひとりでいるとき、創造主かのように世界を語って批判して、そんなことをしている自分が本当は一番クズなんだということはわかっているのに、気持ちいいからやめられないです。
不条理演劇より、現実のほうがよっぽど不条理じゃないか。うん、その通り。
寝て起きたら、もとの自分に戻ってますように!
もとの自分って誰?