自傷をやめた日のこと

今年最後の更新です。

 

この記事は限りなく自分のために、でもなんらか自傷に関する言説が増えたら救いになる部分もあるのではないかと思って書いた。

なんらか悪い影響があるなと感じたら下げようと思います。よろしくお願いします。

 

自分で自分の皮膚を切るということをやっていた。2年くらい前のことだ。

あのころの私のパートナーは、一人は人で、もう一人はもとは鉛筆をけずるために買った、手のひらにすっぽりおさまる薄いおりたたみのナイフだった。いつも机の一番上のひきだしの手前のすきまにいて、緑色でかわいかった。

私の生活のそれ以外は、なんの中身もなくただ自動化された機械のように過ぎていた。表面的にはまともな生活をしていた(授業にも出たしバイトにも行ったしレポートも書いた)と思うけど、なんとなくいつのまにかすべてが通り過ぎたあとだった。

昨日や明日はなく、並行世界もなく、ただ自分はいつもどうしようもなく自分で、どうすることもできないような粘りきった今日今この瞬間だけがあった。

たいてい、かいた線はすぐに消えた。炭酸を飲んで喉がちょっとの間はじける泡で痛くさわやかになるのと、そんなに遠くないと思う。ちょっとあめちゃん食うかくらいのノリでやっていた。何の意味もなかった。ただちょっとだけ、いやだいぶ、気持ちよかった。

 

結果的に私が、自傷行為という向こうから無言の手招きをつづけるソーラーまねきねこのようなものと、一旦ひとまず線引きすることができるようになるには、自分のことをメタ的にみるという、言葉にしてしまえばなんてことのない(でも一人ではこれが難しくなる)技術と、一日という時間が必要だった。

 

ある日の私は今までにないくらい深く自分に裂け目を入れて、満足していたと同時に冷や汗をかいていた。

自分で対処するにはひどすぎ、病院に行くにはたいしたことのない(と思われた)ようなV字の谷が、上腕と下の腕にはえていた。

一旦寝て起きて、病院に行くべきか考えた。「病院に行け」とは言われたが。

しかし結局はっきりとしたのは「これがしのあれで病院に行くには、お医者さんに申し訳ない」という結論だった。そして私は(これは本当に驚きの思考だと今になっては思うが)「でも病院に行けって言われたから、行かないといけないから、せめてもっとひどくしてからいこう、いや、そうしなければならない」「一晩たっちゃったから多分縫えないし(こういうところだけ謎に冷静なのである)」と思って、ふたたび緑のあいつを手に取ることにしたのだった。

でもふつうにビビりの私は、その内部組織にもうちょっとやってやるということがどうしてもできず(だって普通に痛そうだった)、泣きながらその銀色のつめたさをひたすら感じながらこれをちょっと運動させるだけでいいのにいつもいつもいつもいつもいつもいつもいくじなしの自分だなあなどと思っていた(あなたならもっとできるはずと言われてもいつもできないしやらない)。でも同時に「とにかくやらなければ、とにかくやらなければ」とも思っていた。

手に力を入れて、できなくて、泣いて、またできなくて泣いて、それをひたすら繰り返したのだと思うが、記憶のないまま朝の10時くらいだったのが夜の8時くらいになっていた。

周りがすっかり暗くなっていることに気がつきしばらくカーテンを閉めていない窓の外を見て、そのときになってようやくわたくしは、「わたしはなにをやっているんだ」という気になり、もうこんなことはやめようと思えたのだった。二十何年か生きてきて一番何もなく、本当に無駄な一日だったと思った。ちゃんと傷をあらって(結局ひどくしなかったので病院にはいかなかった)乾燥しすぎないようになんか塗ってやった。

 

そいつは、一旦手を結ぶと、そいつのことしか考えられなくなるような、何もかもがそいつのために起こってるんじゃないかと思えるような、ある意味じゃ魔性の子だ(小野不由美は関係ない)。それをしていないと気がまぎれなくなる、不安になる、それをするために理由を探そうとするくらいになる。私見だが、自傷は一種の依存症だと思う。周りから見ている人は、「つらいことがあったからそれから逃げるためにやっているんだ」とか、「それをみせて心配してほしいんだメンヘラ」とか思うかもしれない(そう思っても本人には言わないでね)。自分の場合は、最初は辛いのをなんとかするのとお金とかそういう都合の関係でやりはじめたような気がする。もちろんつらいことをなんとかするための選択肢が自傷だという人もいるとは思うしそういう人が多いのだと思うが(たとえば私の友人の友人は、傷が治る様を心の傷が治るのと重ねるので自傷をやめられないと言っていた)、私の場合は、だんだんそういうときもそうでないときも、つまりぜんぜんしんどくない時にも、そいつといることが必要になってしまった。自分がまだ少なくとも血の通う一個の存在であるであることが必要で、でもそれが苦しいことだから、あるいは苦しくなくても、それが「あーあ」程度でも、そこにどうにかして線を入れて、折り合いをつけてやらないといけなかった。

まわりがやめさせたいと思っても、多分かなり難しいと思う。でも、いっしょにいてくれる誰かは、夜の海に泳ぎ疲れてふと顔をあげるとみえる灯台のあかりのように、別の新しい方向をひらくひとおしをくれるとも思う(使い古された例だが)。

 

今でもたまに検索すると、私なんか比べ物にならんくらいそいつとずぶずぶな子たちがたくさんでてくる。その子たちの血の黒さ赤さが、私の血をざわつかせる。

意味がないことだ、とは言わない。でも、いつかその子たちが別のパートナーをみつけることができればと、心から思う。